酒蔵・地酒の町うちの
 内野には江戸末期から明治頃に創業した3つの造り酒屋があり、越後杜氏の手でそれぞれの個性が光る端正な良酒が造られています。一つの町に4社、しかも至近距離にあるのは珍しいケースです。造り酒屋が内野地区に集まったのは、良質な水を豊富に使える立地と、陸運、水運の便の良さ、新川開削工事や北国街道を行き交う人で賑わい、町全体が繁盛したことによります。

治水の歴史・新川は掘られた川!
 低湿地帯で湖沼が多く点在していたこの周辺は、大雨が降ると水があふれ農作物に大きな被害を及ぼしていたのです。度重なる水害を克服しようと、中野小屋の伊藤五郎左右衛門が中心となって、水を日本海に排水するための水路が掘られました。それが、1820年(文政3年)に完成した新川です。新川は西川の底に木製の底樋(そこひ)を埋め、西川と立体交差させました。この後も底樋は何回か改修され新川の幅も広げられました。新川の完成によって大潟や田潟、鎧潟などの水位は下がり周囲の湿地帯は次々と水田へと開墾されていきました。

西川水路橋
 新川開削当時、新川は西川の底に木製の底樋を埋め西川と立体交差させていました。その後底樋は木製のものからレンガ・花崗岩・コンクリート製へと改修され、1955年(昭和30年)には現在のような西川水路橋となりました。川どうしが立体交差するという珍しい光景をここでは見ることができます。
西川水路橋付近の西川では錦鯉が放流され、川沿ではミニ休憩施設や遊歩道が信濃川付近まで続きます、市民のジョギングや格好の散歩道として親しまれています。


農民義勇碑
 戊辰戦争のとき内野下組庄屋の渡部三郎兵衛が村内の20人余りで組織した農民義勇隊は、会津藩の指令により三島郡西越村(現在の出雲崎町)をはじめ各地で薩長連合軍と一進一退の激戦を繰り広げました。義勇碑は果敢に戦い、各地で戦死や負傷した多くの農民兵をたたえたもので、清徳寺内にあります。

槙尾の金塚地蔵
 日本文理高校の裏に安置されている槙尾の地蔵様は「お水」を授け、病気や心配事に悩む人たちを救うと言われています。現在も地元はもちろん、遠方から多くの信者が訪れ、「お水」をもらいにくる人が後を絶ちません。

青山保安林
 植物、野鳥の観察において青山保安林は、新潟市内で最も適した場所のひとつです。植物では、クロマツ、ニセアカシアを主群とし、潅木、下草の種類も豊富です。年間を通じてヒョウタンボク、コマユミ、ヒイラギ、ヤマウコギ、ヤマグワ、ツルウメモドキ等が楽しめます。野鳥では、春秋渡りの季節には集団での移動が多く見られます。ウグイス、オオルリ、コルリ、ルリビダキ、メジロ等の山地で繁殖するもの、ヒヨドリ、カワラヒワ、シジュウカラ等、年間を通して豊富な種類の野鳥を見ることができます。

産業道路
 第2次世界大戦後、民間の石油会社が産業復興のために天然ガス採取の計画を立て、1956年(昭和31)年(昭和31年)頃から4年の年月をかけて建設した産業道路です。現在は国道402号線となっていますが、この道路はその歴史を語る商人と言えます。

寺尾中央公園(旧寺尾農園・新潟遊園)
 寺尾中央公園は春にはチューリップ、秋にはコスモスが満開となり、さらにバラ園が整備されており、朝夕の散歩に最適な公園です。青山保安林と同様に海岸地域の防風林であったのですが、1945年(昭和20年)に農園として開拓され、1945年(昭和20年)に農園として開拓され、1948年からチューリップ等の球根栽培を開始。後にレジャー施設を整え、市民のために「新潟遊園」として開放され、移転するまでの間多くの人に親しまれました。今では越後線の「農園踏切」という名称にかつての名前をとどめています。

的場遺跡と流通センター
 1983年(昭和58年)に卸・運送・倉庫等の企業を集めた流通センターが完成。また、流通センターの中にある的場遺跡は全国でも数少ない奈良・平安時代の鮭漁にかかわる遺跡です。現在は県の遺跡指定を受けて、遺跡公園の整備が進んでいます。

槙尾の宝光院
 宝光院は250年前から庄屋中野氏が招致した禅宗寺院で、本堂はつい最近まで大きな萱葺き屋根でした。本堂の柱には1896年(明治29)夏に起きた信濃川の大洪水「横田切れ」で冠水したときの跡がくっきりと残っており、当時の被害の大きさを今に伝えています。

坂井輪村役場跡
 1901年(明治34年)に坂井郷の4村が合併して坂井輪村が成立しました。その役場跡に書庫、門、石段などが今も残っています。現在は、坂井自治会集会場になっています。

須賀神社(諏訪社)の狛犬
 江戸時代からなる集落には必ず神社があり、周辺の人々は一家の繁栄や豊かな実りを願ってきました。境内は神聖な場所と考えられ、よく魔除けの狛犬が置かれています。須賀神社の狛犬は、怖いようでいてどことなくユーモラス。他の神社の狛犬と比べてみては?

大曲お地蔵様
 西川は坂井輪小学校付近で、大きなカーブを描いています。そこは「大曲」と呼ばれ、土手下にはお地蔵様がまつられています。古くからお地蔵様は、死んだ後でどんな人でも極楽浄土に行けるように手助けしてくれると信じられています。

関屋掘割記念碑
 西川沿いに広がる一帯は美田が多い地区とされていますが、周辺に住む農家の人たちは、長い間水害に悩まされてきました。その解決策として訴え続けてきた関屋地区での掘割による排水が1910年(明治43)にようやく実現するまでの記録が記されています。もともと関屋にあったものが現在はここに移されて建っています。

治水記念碑
 掘割の完成で一度は治水は成功しますが、土砂の流入によって10年後には掘割は埋まってしまい、その後も水害は続きました。
地元農家の人たちを中心に取り組んできた治水業務が1977年(昭和52年)宅地化の波と共に新潟市に移管され、これを機に治水に費やした努力を後世に伝えるために建てられました。

北陸道と明治天皇北陸巡幸
 西川左岸の土手道は北陸道と呼ばれ、多くの旅人が往来しました。1878年(明治11)に明治天皇の一行が通過した際、人々はその光景に新しい時代の到来を実感したとか。渡部家前に建つ記念碑が、静かに時の流れを伝えています。

平島の御名号堂
 約800年前、都を追われて越後に流された親鸞(1173〜1262)は、鳥屋野滞在中にたびたび信濃川をわたり平島方面で新しい仏教の普及を図ったと伝えられています。風波の激しいある日、舟のへさきに「南無阿弥陀仏」の名号を掲げたところ、たちまち水路が開けて渡ることができたという伝説が残っています。

文化探検マップシリーズ・新潟市文化振興課刊より